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ニュージーランドで新卒を捨て、彼女を追いかけてきた男が書くブログ。

これが僕の人生です。

どうも、マーディ(@rym_nz)です。



1992年4月13日に北海道の赤平市で爆誕。



函館の団子屋の前で、団子がなかなか来ない時の僕


両家の初孫として産まれた赤ちゃん


両家の親戚の中でもいちばん最初に産まれた僕は、親戚一同から、死ぬほど大事にされて扱われてました。


産まれた瞬間から、ぜんぜん眠らない子で、寝かせ付けるのに死ぬほど苦労したそうです。そこで、親戚一同で行き着いた寝かせ付ける方法が、「僕を抱っこしたまま階段をひたすら上り下りする」だったそうです。


不思議と、何をしても寝なかった僕はぐっすり寝ていたそう。これを、交代交代でやってくれていた、親戚一同には感謝です。ただ、いま思えば、階段を上り下りする時の揺れで脳震盪を起こして軽い気絶状態だったんじゃないか、と語り継がれています。笑




ポケモンから学ぶ幼稚園時代


自分の知らない場所に行くのが死ぬほど嫌いでした。


いつも乗るバスは青色のバスに乗って帰るんですが、当時仲の良かったかっちゃんの家に幼稚園からまっすぐ行くために、赤色のバスに乗ることがあったんですが、ギャン泣き。笑


知らない場所に行くことに、ものすごく不安を感じていたのかもしれません。でも、いま思えば、当時のこの不安はワクワクと紙一重の気持ちだったんじゃないかな、と思います。



そんな感じの幼稚園時代に、ポケモンが大流行します。そうして、ポケモンを買ってもらった僕は、ものすごい勢いでひらがなとカタカナの習得にします。


ものすごい、ハマってポケモン全部の名前を覚えるために、ひたすらカタカナの覚えました。ゲームを全然進めることができませんでしたが。


レポートの時になる「チャリン」という音が、お金の溜まる音だと思っていたので、死ぬほどレポートしていたのを未だに覚えています。笑



野球と英語に出会う小学校時代


小学校時代は、とにかく野球。小学生ということもあり、上下関係のない、野球チームで、朝から晩まで、とにかく野球に明け暮れる日々でした。


野球、野球野球


小学校3年時には、低学年チームのキャプテンになって、6年生ではチーム全体のキャプテンになりました。みんなの先頭に立つ!みたいなのが好きで、とにかく俺についてこい!みたいな感じでした。


毎日の野球のおかげで、こんがり焼けて、ガリガリだった僕の当時のあだ名は「ごぼう」でした。(当時の僕は、これが人生で最初で最後のあだ名になるとも知らずに…)


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小学校5年生のころに、突如、グラウンドとして使っていた公園の工事が始まり、野球のためのフェンスが低くなり、野球を禁止されました。親たちの必死の抗議も通らず、市からの返事は「野球ボールが目に当たると失明の恐れがあるから。」でした。


この時に、「大人ってあまりにも理不尽だ。」って思ったのをいまでも鮮明に覚えてます。


それから半年後くらいから、その公園でサッカー少年団が練習を始めた時にも、親と市に抗議したけど、事態は後の祭り状態でした。野球はダメなのに、サッカーはOK。大人も、そして、なんとなくサッカーも嫌いになりました。



学校生活では、小学校6年間成績優秀でした。成績表に「落ち着きがない」と、書かれたりすることもありましたが、結果として成績が良いので、親から勉強をしろとか言われることもなく、6年間を過ごします。


小学校の隣には、ジャイカがあって、授業でいろんな国の人との関わりがありました。仲良くなったアフリカ人と一緒に、お互いの言っていることがわからんのに一緒に帰ったりもしました。これが、きっと僕の最初の国際交流だったと思います。


小学校5年のときに、おかんのススメで、英会話教室に通い始めます。この英会話教室、僕と生徒がもう一人だけの教室で、2週間に1回アメリカ人のウィリアムが来てました。


このウィリアムがすごい面白いやつで、この英会話教室が大好きでした!正直、日本語を話していたほうが多くて、ただの遊びだった。


だけど、ジャイカとの交流・英会話教室のウィリアムのおかげで、僕の中での国際交流ってのは割と身近なものになった気がします。



中学校は闇の深い暗黒期


中学時代は、僕の人生の中でも闇の深い暗黒期でした。


小学校から同様に、野球を続けるんですが、小学校からのチームのメンバーで構成されたような野球部で、また、上下関係の無い楽しい野球生活ができます。


しかし、学校でイジメが流行ります。シカト。もう本当に、無い存在として扱うみたいな。どんな流れからそうなったかは覚えてないけど、初めは僕もシカトされたくないので、そのシカトに加担しました。


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ただ、この流れはもちろん自分にも流れてきて、シカトされました。たぶん1ヶ月くらい。この時期はめっちゃ辛かった。ただ、なぜかシカトされてて学校に行きたくない気持ちを、小学校から続いている無遅刻無欠席の記録を消したくない、って気持ちが少し上回りました。笑


いま思うのは、この時、僕はイジメられて良かったと思うんです。シカトされなければ、シカトしていた時の自分がどれだけ愚かだったか、どんだけひどいことを他人にしていたのかわからなかったはずです。


当時シカトしていた、そしてシカトをされていた1人の友達とは未だに連絡をとる仲です。きっかけは忘れたけど、中学を卒業前に腹を割って話して、お互いに謝ったのを覚えています。


シカトされてからというものの、中学校1年が終わるまで、僕には友達という友達はできず、無遅刻無欠席を守るために学校に行っていました。2年生になるころには、そんなシカトブームなるものも消えて、友達もできます。ただ、本当の友達というか、学校で会う知り合いみたいな。


なので、中学時代はただ学校に行き、帰るという生活。生きながらに死んでいるという生活をしていました。



教員との喧嘩・友達・バイトに明け暮れた高校時代


中学校とは違い、高校はめちゃくちゃ楽しみます。


中学校で肘を壊して野球ができなくなっていた僕は、なんか他の部活をしようと思います。そこで、当時の成績ではいれそうな高校を2つにしぼります。


A高校は頭も良く、評判も良い高校です。制服は学ラン。しかし、時代錯誤も良いことに、どの部活も坊主。

B高校は普通より少し上くらいの高校で、制服はブレザーにネクタイ。部活は坊主が強制ではありません。


中学で学ランを来ていた僕はネクタイをしめることにあこがれて、制服がブレザーで、坊主にしなくていい、B高校を選びます。

入学が決定してから、気がつくのですが、ネクタイがパッチン式で学校選びに死ぬほど後悔しました。

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B高校には、他クラスに入ってはいけないというルールがありました。


高校入学後の、登校初日に他クラスにいる友達と話しに、教室ドア付近で立っていると、英語の教員が他クラスに入っていると言われ、僕は登校初日に反省文を渡されます。


教員によれば、足の親指がはみ出していたからという理由でした。その後、毎日英語の授業では、いびられる日々が続きます。「発音が下手、全然訳し方がうまくない。どうやったらそうなるのか。」


おばあちゃん先生だった、先生の英語はコテコテのカタカナ英語でした。なので、お前だって英語の発音が下手くそじゃねーかと喧嘩してました。いつか見返してやろうと英語の勉強を必死にします。



そんなスタートを切った僕ですが、めっちゃ友達ができて高校生活を楽しみます。とにかくいっぱい仲の良い友達が。しかも、全員サッカー部。

なので、サッカー部が全道大会に出たときは、学校からみんないなくなったので、学校を抜け出し、札幌から帯広まで片道3時間かけて試合を見に行きました。(これで僕の小学校からの無遅刻無欠席が途切れます。


けど、そんくらい気の合うやつらで、本気で応援しに行きたいと思ったので未だになんの後悔もしていません。


そんなサッカー部ばかりに友達がいたのに、僕はなぜかバドミントン部に入り、3日で辞めて、ビールを売るバイトを始めます。

売れば売るほど、お金がもらえる、このバイトで「完全実力主義」を目の当たりにするのと同時に、お金を稼ぐ喜びを覚えました。

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結果、このアルバイトは、現在住んでいるニュージーランドに来るまで、続けることになるため結果として9年間も続けます。




僕の高校生活は、英語教員との喧嘩、友達と遊ぶ日々、時々恋愛して、そしてビールを売り続ける日が続いて終わるのでした。


本当の人生が始まった短大生時代


僕は高校に引き続き、この短大生生活もめちゃくちゃ楽しみます。


高校時代に、生物が一番の得意科目で大好きだったので、生物の教員を目指してました。ただ、3年の10月頃に、「お前色弱だろ?生物の教員になれんぞ」と高校教員に言われます。


生物の先生になれないと知った僕には、英語教員が嫌いで見返すために必死でしていた英語関係の大学を探しました。そこで、英文学科の大学を目指すのですが、もともと理系の僕は国語の勉強をまったくしていなかったので、無理だと思い、とりあえずは短大の英文学科に入ることに。


いま、調べると色弱だと難しいものの、しっかりと理科系の教員になれるようです。


なんとなく英語ができると思って入った短大英文学科(学年160人中、男は僕含めて7人のみ笑)


そして、入った瞬間に、あまりに自分の英語が下手くそでがっかりします。


その一方で、高校から続けていたアルバイトに、高校からの友達と遊びまくる時期を繰り返していた僕は、同じ日々の繰り返しにも飽きてきました。


起きる → 大学 → バイト or 友達 → 寝る    大学生が送る黄金生活サイクル


これの繰り返し。大学で出会う友達は、なんていうかサークルで「うぇ〜〜〜〜〜い!」って感じで、恋愛にばっかり忙しい人たちでついていけないし。



なので、「大学は塾みたいな気持ちで通おう」って思い始めました。実家から歩いて10分の大学に、僕は通うだけのユーレイ部員ならぬ、ユーレイ学生になるのでした。




そこである日、突拍子もなく、「英語話せるようになりたいし、この繰り返しの生活に終止符打とう。このままだと、死ぬまでこれの繰り返しだ。」って思い、休学と留学を決意。



お金に余裕のある家庭ではなかったので、半年アルバイトを死ぬ気でして、半年の留学をしようと考え始めます。



いろいろと相談するために、僕の人生の師でもある1人の教授、かよこさんに相談に行きます。すると、教授に「半年行っても意味ないから、絶対に1年行くべきよ。お金は、その後でも返せるけど、時間は取り返せないわよ。」(本当にこういう話し方する先生でした。)


そこで、僕は大学を1年休学して、1年間のイギリスへの語学留学を決定し、イギリスに旅立ちます。ヨーロッパの方が、いろんな国に行ける、イギリス英語の方がなんとなくカッコイイという理由でイギリスに行きます。


イギリスで僕は恋に落ちる。


イギリスはノッティンガム。みんなが、あの有名な映画「ノッティングヒル」と勘違いしますが、別の場所です。


目にするもの、耳にするもの全部が新しい。…はずだったんですが、最初の1ヶ月は、悪戦苦闘します。

ホストファミリーには、まったく英語が通じないし、まったくわからないイギリス訛りの英語。語学学校ではクラスが、僕以外アラビア人。自分で、どこの国にいるのかわからなくなるくらい、アラビア語が教室に響いてました。


なので、語学学校で楽しむことができず、学校終わりの無料の英会話グループに行くのが楽しみになります。


そこで、出会った日本文化大好き、アメリカ人に誘われ、Japanese Societyというグループに属するようになりました。そこをきっかけに僕の英語力はぐんぐん伸び、語学学校でのクラスも一番上のクラスに変わり、多国籍のクラスになりました。


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最後の集まりに参加して、悲しさのあまりにブリッジをしました。

日本では常に発言しまくっていた僕が、その教室では物静かに感じるくらい、みんなが話します。その光景は、いままで僕が日本で見てきたものとは大違いのものでした。なんせ、高校でも短大でも発言するのは僕のみでした。意見の交換も何もあったもんじゃありませんでした。

しかし、ここでは僕がずっと飢えていた、みんなの声が教室に響き、僕の意見が反対されるし、まったく謎の理論で僕を納得させようとするやつ、とにかく僕の思い通りにいかないその世界に僕はどっぷり恋に落ちます。


そして、ある日、Japanese Societyでめちゃくちゃ日本が嫌いなポーランド人に出会います。


日本好きな彼女の友達に連れられ、嫌々やってきた、その子に僕は当時で人生最大の一目惚れして、恋に落ちます。日本が好きじゃかったてのが、余計振り向かせたい気持ちを高めました。笑


その子出会ってからの、僕の英語力の伸びはすっさまじかった。あんなに努力というものをしたことが無いくらい英語の勉強もしたし、振り向かせるためにいろんなアプローチをかけました。


恋の力は偉大だ。(なんかでしゃばってすみません。)


日本人に偏見を持っていた彼女を振り向かせるのは容易なことじゃなかったけど、結果付き合います。ただ、僕の帰国に伴い自然消滅。人生初の大恋愛は、あっさり終わってしまいます。



帰国後の短大生活は


帰国後は、1年間の短大生活が残っていました…がその前に、僕にはやるべきことが残されていました。

そう、それは高校の英語教師を見返しに行くこと。僕は、イギリスで必死に英語の発音を身につけました。発音にはとても気をつけました。


帰国後2日目に、高校を訪れ、ALTとして来ていたアメリカ人とその先生と一緒に留学時代の話しをすることに。

明らかに、僕の英語の発音の方が良かったので、僕はこう伝えました。「先生、随分英語の発音が下手くそですね。それ、海外出て、カタカナ英語に慣れていない人には伝わりにくいんで直した方がいいですよ。」


性格がめちゃくちゃ悪いのは百も承知ですが、本当にムカついたんですよ、当時。ただ、この一言で、高校3年間いびられた気持ちは少しおさまったのです。


そんなひとつの目標を達成した僕は思います。「日本つまんなっ。」


毎日刺激が足りないと思いってました。ま、とても海外にかぶれていました。笑


講義では、必ず教授の目の前に座って、とにかく話すので、僕と教授のおしゃべり会みたいな感じでした。僕はいくつかの講義で「イギリス」というあだ名をつけられていたのを知るのは、もう少しあとの話しです。


休学していたので、年齢が1つ上での2年生をスタートしていたのですが、帰国後、数ヶ月してから、同じ学科に4人の友達ができます。年齢が違うのに後輩じゃなくて、友達です。


上下関係が無縁みたいな生活をしていたので、後輩・先輩というものに距離を感じる僕に、年が離れた友達ができた時の嬉しさは半端じゃなかったです。


これは、とても大きかった。バカ話しもできるし、真面目な話しもできる友達。年齢に気も遣わない、敬語も話さない本当の友達です。特に、その中の1人は、ニュージーランドの高校出身で、海外の話し、英語の話しとかいろいろできるのは、そいつ!って感じのやつでした。

4年生大学への編入。NZに来るきっかけに出会う。

そうして、楽しい短大生活を終え、僕は心理学科に編入をします。

英語は自分で磨きをかけて、何か自分の興味のあることを勉強しようと思ったので、心理学科に。2年間、割と真剣に勉強をしますが面白さを見出せずに過ごしていました。


そのまま、なんとなく過ごし、就職活動の時期に。


スタートダッシュこそ、少し遅かったものの、就職活動は少しします。しかし、始めた瞬間にこの就職活動に嫌気が刺します。なぜなら、北海道の人には就職活動は、めちゃくちゃ金がかかる。


興味のある企業が東京と関西に集中していた僕には、とにかく金がかかるものでしかありませんでした。エントリーのためにわざわざ、就職面接が必須なので、ありきたりの話しを聞くためにわざわざ2時間と2万近いお金をかけて東京に。


こんなのに、お金かけるくらいなら、友達と遊ぶために使おうと思い、就職活動をやめます。


そうして、バイトと卒論にとりかかる日々が始まり、就職どうするのかなと考える日々。そんな悶々した日々が続くなか、ある日に、いまのニュージランド出身の彼女と出会います。


札幌で出会ったイギリス人の友達が、北朝鮮への旅行から帰って来たということで、一緒にパブに出かけることに。そのパブのドアをくぐった瞬間にいまの彼女と目が合います。天使かと思いました。


ここで、僕は一目惚れします。(人生二度目の)


男女共通のトイレに並んでいた彼女を見つけた僕は、トイレに行きたくもないのにすかさず並び、話しかけ電話番号を交換。


札幌から車で3時間かけた町に住んでいると知った僕は、その後、毎週のように3時間かけて会いに行きます(高速代は片道5000円+ガソリン代)


そうして、付き合いが始まるのですが、彼女の日本での英語教師としての契約期限が切れるのを知らされます。それは、彼女がニュージーランドへの帰国を意味します。


僕は泣きました。男らしいとかは関係なく泣きました。笑


そして、就職活動は完全に諦めて、ニュージーランドにワーホリにくることに決めます。




NZでワーホリ生活〜改めて英語を磨く修行編〜


約4年ぶりの海外生活。今回はイギリスの時と違い、英語がある程度話せる状態からのスタートです。しかも、今回は働くことができます。さらに、さらにイギリス人と似たような英語を話すニュージーランド人。


しかし、彼女の友達と出会って、僕のそれまでの英語の自信は、一瞬で消え去ります。


ニュージランド人、英語しゃべるの早すぎ問題。


そう、ニュージーランドの人、まじで英語話すのが早すぎるんですよ。しかも、イギリス英語には無いスラングの数も大量にあるし。

そんな感じで英語に苦労するものの、いまのカフェでの仕事を見つけます。


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そして、トントン拍子で、カフェの仕事からツアーコーディネーターや通訳の仕事をもらいます。その仕事を通して、ニューカレドニア、オーストラリア、パプアニューギニアに行ったし、とても良い経験をさせてもらいました。


けど、この出会いのおかげで、本当に日本人の縦社会文化が改めて嫌いになります。


この仕事を回してくれていた日本人男性が死ぬほど理不尽で、年下の人間を人間と思っていないようなやつでした。言葉遣いはひどいし、自分のミスは僕のせい、僕の成果は自分の手柄。仕事を終えてからの、給料の変更。都合が悪い時はシカト。


そして、終いには、僕の彼女を巻き込むような出来事。


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これを機に、俺の心の奥深いところからこみ上げる気持ち。そう、高校で英語教員にいびられた、あの時の気持ちが。


「こんなやつの下で働かないで、絶対に自分で成し遂げてやる。そんで、こいつよりすごいことしてやる。絶対に吠え面かかしてやる!!!」って。


そうして、いま僕はフリーランスとして、翻訳・通訳・ツアーコーディネーターとして動き回るための準備をしています。



実際には、翻訳と通訳としては、大きいものではないものの仕事を貰うことができています。ただ、自分の発信力を高めるため、これから新たにしたいことを実現するために、Wasabiさん(@wasabi_nomadik)主催のDMMサロンに入りました。



今回は、その課題ということもあって、この自己紹介の記事を書きました。これから、もっともっと自分の発信と、読んでくださっている方に有益な情報の発信をできるように頑張っていきますので、乞うご期待!